文化資源・資料

栃木町に県庁があった頃(その5)

栃木県が栃木町で誕生して150年たちます。
栃木市にはその頃の名残が残っています。それを10のテーマにして取り上げてみました。

9 縣社 神明宮

神明宮は、明治5年県内初の縣社に列せられ、明治6年境内に、禁制の高札が下賜されました。
この高札下賜は県下初めてのものでした。
拝殿は中教院の講堂として、その南側の学寮と同時に建てられ、その上棟式は明治8年11月26日に挙行されました。

中教院とは、明治新政府が天皇を中心とした神道思想によって国をまとめあげようと考え人々に広める指導機関として設置されたものの一つです。
大教言院が東京におかれ、その下の県下に一つ置かれたものが中教院です。
当時町民は、神明宮敷地地業御報依と称して、土運びや地ならしに奉仕しました。

明治13年本社社殿再建が起工され、明治16年10月16日竣工、正遷宮の式典が行われました。
神明宮大例祭は、この式日を記念して翌11月16日と定められ現在に至っています。 

10 「入舟町」「湊町」

海の無い栃木町に、なぜこの地名があるのでしょうか、また、いつごろから使用されたのでしょうか?
江戸時代、栃木町は巴波川の舟運を通じて江戸と取引をしていました。
幸来橋(念仏橋)の右岸(西側)には、片柳河岸があり、左岸(東側)は栃木河岸の回漕問屋が並んでいました。
県庁は薗部村鶉原(現入舟町)です。

明治14年発行の栃木市街之圖には「湊丁」の地名がみられ、明治15年設立の栃木義塾の住所は薗部村字入舟町八番地とあります。
さらに、明治16年12月14日 三島通庸宛の県庁移転の町民の御伺書に「湊町惣代谷田吉三郎 増山藤吉」「入舟町惣代 寺内治三郎 古川利三郎」と「入舟町」「湊町」の地名が登場します。
明治22年町村制施行により大字、昭和12年市制施行により入舟町、湊町となり現在に至ります。